晴れた日の一枚。雪よ、早く溶けてくれ~。
寒くても、たくさんのつぼみは春を待っています。
心理カウンセラーの方が、
災害時の応援の在り方について
書いている記事を読みました。
「災害時の救援に行かずとも、
自分の平穏な心の状態や暮らしを、守るのも立派な応援。
逆に被災地のことを心配ばかりして、
自分のことが手につかなくなるのは
メディア災害と言えるかもしれません。」
とありました。
この文章を読んで、すごく腑に落ちたんです。
母の葬儀の朝を思い出します。
死化粧を施すため、化粧品を買いに行く。
見上げると、真っ青に晴れ渡った空。
きっと他の人には、爽快な一日の始まりなのだろう。
そのことが、
まるで異次元の世界のように、不思議に思えた。
葬儀を終えて帰ってくると、
職場では、慰めの言葉をかけられる。
なんて言っていいか分からないから、
とりあえず型どおりの返答をする。
その後、手渡した香典返しの黒い紙袋を、
かばん代わりにして、いつも持ってくる人がいた。
私は、その袋は見たくなかった。
その人は、普段「私はこんなに優しい人よ」と
アピールしていたから、余計、違和感を感じたのです。
一方、
葬儀でとても悼んでくれた義母が、
「悲しかったな。でもしょうがないことだから。」と
淡々と生活している姿に、すごくほっとしたんです。
今、災害が起こると、
何かボランティアに行くのが
これ見よがしになっているような気がするのですが、
どうでしょうか。
また、ある歌を歌うことで、
災害支援に一役買っているような気になるのは、
どんなものでしょうか。
(ボランティアがいけないというわけでなく、
それをアピールする「意図」が引っかかるのです。
ある歌が嫌いと言うより、
(むしろ個人的には好きなのですが)
その歌を利用しようとする背景に違和感を感じるのです。)
支援の名のもとに、
善意の押し付けになってないか。
ポーズをとる材料にしていないか。
もちろん、
支援者が皆そうだと言っているわけではありませんが、
少なからずそんな人もいるのではないでしょうか。
理由の一端は、メディアが美談として取り上げるからでもあります。
ここには、いわば暗示的なメッセージが込められています。
「支援に行く者は、このように素晴らしい。
行かない者は、どうだ?」という・・・。
表立った活動をしないと、
何かしら罪悪感と言うか、強迫観念を感じさせられます。
本当の支援とは、何でしょうか。
強制されなくても、
心から思ったことならば、
おのずと行動が変わってくるものです。
例えば、
そっと募金をすることかもしれない。
子どもに、普段の生活のありがたさを教えることかもしれない。
自宅のエネルギーの使い方を見直すことかもしれない。
それはアピールするようなことではない。
でも、これだって、支援といえるのではないでしょうか。
華々しい支援をしなくても、ちゃんと支援になり得る。
アピールにすり変えることが、応援なのではなく、
なるべく落ち着いて、自分の生活を守る。
自分のなすべきことをする。
これも立派な応援の在り方といえるのではないでしょうか。